ブラタモリ流横浜散策のススメ

吉田新田って? 関内って?

かつての横浜市の学校では、横浜という町(今日の中心部)がどのようにできたか、授業(たぶん社会科)で勉強する機会があったと記憶しています。
ところが昨今では必ずしも授業にないようで、横浜生まれの若い世代に「吉田新田」と言っても、何のことでしょう?という反応が返ってきてしまいます・・
悲しいかな、時代の違いを感じてしまいますね。

横浜が歴史の表舞台に登場するのは江戸時代末期の開港であることはご承知の通りですが、その前の時代に何度かに渡る大規模な埋立て事業があり、横浜という町のかたちが徐々に形成されていった歴史があります。
その代表格が「吉田新田」です。
横浜の内陸部はほとんどが丘陵地帯で、平らなところは本当に少ないのですが、港を背にして関内駅・伊勢佐木町・阪東橋・吉野町という付近までは、何故かここだけ広大な平地が続いています。(京浜急行なら日ノ出町~南太田あたりまで)
この広大なエリアはかつては入り江で、江戸時代に新田(田んぼ)の開発のために埋め立てられた一帯で、吉田新田と呼ばれていました。
今でも、関内駅の近くに吉田町とか吉田橋、吉田小学校などの地名が残されています。
この吉田新田は、横浜では珍しい平地であることと、開港した港に隣接するエリアだったため、明治時代以降には横浜のまさに中心市街地として、一気に開発が進みました。
ちなみに、吉田新田(かつての入り江)の両側はいずれも断崖のように切り立った丘陵で、海側から見て右手が野毛山、左手が山手。驚くような急坂が突然現れるような地勢です。

ところで、皆さまは「関内」という地名の由来をご存知でしょうか?
それは文字通り「関所の内側」を表します。
江戸末期に開港した当時、開港したとは言え、庶民が港に自由に出入できる状況ではなく、港の周辺には外国人用の居留地が設けられていました。
その港を含む居留地と内陸側の出入口には関所が置かれ、港側を「関内」と呼んだそうです。
ということは、内陸側は「関外」ということになりますね。
今日、関内は駅名や地名として残されていますが、関外という名前はあまり使われていません。
ただ、地元の人たちは線路のこちら側と向こう側にエリアを分けて呼ぶときに、少し冗談を交えて「関外」と言うようです。

歴史の痕跡を探してみる

吉田新田以外にも、例えば中華街のエリアもかつては別に作られた田んぼ(新田)でしたし、山下公園は関東大震災の時に発生した瓦礫の捨て場として埋め立てられた場所を、日本初の親水公園にしたことなども知られています。
このような雑学的な話は文字で読むのも結構ですが、ぜひ現地に行って確認してみてください。
今では一面の町になってしまい、普通に歩いてもよく分からないかもしれませんが、NHKの人気番組「ブラタモリ」的な視点できょうろきょろ観察しながら歩くと、面白い発見がたくさんあると思います。
例えば、現在の横浜の海岸線から吉田新田まではすべてが埋立地かというと、実はそうではありません。
かつてはその一部に「横浜」の発祥となった、横に長い半島のような形状の砂浜(=陸地)があったそうです。
その陸地の部分は、周囲の埋立地よりほんの少し標高が高いため、よ~く見るとそこに向かう道路は、今でもすべて緩やかな坂道を登っています。
また、中華街に入ると方向感覚を失う方が多いのも、有名な話です。
何故か?中華街のあるエリアだけが、周囲の碁盤の目状の道路から45度傾いた区画割りになっているからなのですが、それは前述した中華街エリアの生い立ちに起因しているようです。

このような歴史を感じられる横浜の中心部は、徒歩で十分に廻ることができます。
横浜マンション流通プラザの最寄りである石川町駅からもすぐそば。
夏の暑い時期は避けて、気候のいい季節にタモリの気分でふらりとお出掛けになってみてはいかがでしょうか?
お勧めです。